金を溶かす王水とは [金の性質]
金は、酸にもアルカリにも侵されず、錆びる事もない。
金はまさに千古不滅の金属ですが、そんな金にも大敵があります。
それが王水です。
王水は、濃硝酸に濃塩酸を混ぜて作る物です。
王水は金や白金を溶かす事ができ、溶剤としては地上最強の物です。
「これこそ水の王である」と言う所から「王水」と名付けられたとも言われています。
それにしても、金はまさに地上にある金属の王とも言える金属ですが、それを溶かせるからと王水とは実にうまく名付けたものです。
もっとも、一般には知られていませんが、王水以外にも金を溶かせる溶剤があり、青酸カリで知られるシアン化カリウムです。
価格が安い所から、金の精錬には使われていますが、環境問題を起こしやすく時々問題になります。
将来は金の生産の足かせになるかもしれません。
御金蔵破りについて [金の歴史]
警戒厳重な城中に忍び込んで大判、小判を頂戴する。
いわゆる「御金蔵破り」は時代劇の名場面ですが、そうは多くなかったようです。
見つかれば、打ち首、獄門は免れません。
第一、大名は貧乏で、商人からお金を借りていた所が多く、御金蔵に押し入っても大した物は取れず、割が合わないと言う事が泥棒にも分かていたのでしょう。
とは言っても、御金蔵破りが全くなかった訳ではなく、いくつか報告されています。
その内、おそらく最大な物は享保19年に甲府城の金蔵を襲ったものではないでしょうか。
この御金蔵破りでは二千両が奪われたと記録に残っています。
犯人は捕まりませんでしたが、この時は甲府勤番の交代制を狙ったと言われています。
それだけに、幕府の内実に詳しかった者の犯行と考えれています。
ただ、御金蔵破りは大名にとって極めて不名誉なだけに、あったとしても闇から闇に葬られた公算が大きいと思われます。
それだけに実際にはこれ以上多額なものがあったかも知れません。
金座跡地で大儲け [金の歴史]
江戸時代、小判など金貨を造っていた所を銀座と言っていました。
その内、銀座は今や日本一の繁華街になっており、場所を知らない人はいません。
ところが、金座の跡は意外と知られていません。
金座は現在の日本銀行本店のある場所、東京都中央区日本橋本石町にありました。
日本銀行は設立当初、同じ中央区の小船町にありましたが手狭になり、金座の跡地を購入、そこに移転する事にしたのです。
ところが「金座の跡の土砂には金が混じっている」との噂が立ち、一獲千金を夢見て採掘を申し込む人が跡を断ちませんでした。
そこで、明治二一年、日本銀行の建物を建築する前に数社に採掘を認めたところ、金が出てきました。
この時、採掘料だけでも当時の金で一千円が日本銀行に入りました。
最も、採掘された金の量はどの程度か、残念ながら分からないとのことです。
それにしても、金座の跡に日本銀行があるとは実によくできた話ではあります。
その内、銀座は今や日本一の繁華街になっており、場所を知らない人はいません。
ところが、金座の跡は意外と知られていません。
金座は現在の日本銀行本店のある場所、東京都中央区日本橋本石町にありました。
日本銀行は設立当初、同じ中央区の小船町にありましたが手狭になり、金座の跡地を購入、そこに移転する事にしたのです。
ところが「金座の跡の土砂には金が混じっている」との噂が立ち、一獲千金を夢見て採掘を申し込む人が跡を断ちませんでした。
そこで、明治二一年、日本銀行の建物を建築する前に数社に採掘を認めたところ、金が出てきました。
この時、採掘料だけでも当時の金で一千円が日本銀行に入りました。
最も、採掘された金の量はどの程度か、残念ながら分からないとのことです。
それにしても、金座の跡に日本銀行があるとは実によくできた話ではあります。
イノシシと金 [金の歴史]
戦前、日本人はイノシシに大変、親しみを持っていました。
と言うのも、イノシシを持っていけば、金と交換する事が出来たからです。
と言っても、本物のイノシシではありません。
十円札の事なのです。
かつて、十円札にはイノシシの絵が印刷せれており、俗に十円札の事をこう言っていたのです。
このイノシシには「この券引換に金貨拾圓相渡可申候」と言う趣旨の言葉が印刷されていました。
十円金貨と交換してくれると言う事です。
このように金貨と交換できるお札を兌(だ)換券といいます。
これも、当時、日本が「お札の発行量は金の保有量によって制限される」と言う金本位制をとっていた為です。
現在、日本は金本位制をとっていないので、お札はこのような分言は印刷されません。
最も、現在はお札を地金商に持って行けば誰でも自由に金を買う事が出来ます。
1973年に「金の輸入自由化」が実施された為です。
今、イノシシがあってもあまり大切にされそうにはありません。
世界最大の金貨 [金の歴史]
「金銀が野山から湧き出ずる」と唱われた桃山時代は日本の歴史上最も豪華絢爛だった時代でした。
世界最大の金貨もこの時代に造られました。
豊臣秀吉が造らせた天正長大判というのがそれです。
天正長大判は長さ約17センチ、幅は最大で約10センチで、楕円形をしています。
重さは44.1匁(165グラム)で、金の含有率は約74%で一枚には約122グラムの金が含まれている事になります。
しかし、これほど大きいと不便で専ら贈答用に使われていました。
この、天正長大判は重さの面でも長い間、世界一の座を保っていましたが、1991年ついに、その座を譲り渡しました。
オーストラリアがなんと1キログラムという大変重い「ナゲット金貨」を作ったからです。
重さでは世界一です。
最も、これも実用に適さず「金貨より地金といった方が良いのでは」と日本銀行は言っています。
この声に無念の響きが感じられないでしょうか。
金とカラットの関係 [金の性質]
カラットというと何を思いうかべますか?
恐らく、あの光輝くダイヤモンドをまぶたの裏に画くのではないでしょうか?
ところが、カラットという単位はダイヤモンドだけでなく、金にも使われます。
普通、指輪などを買うと裏にKの字が刻み込まれています。
このKの字がカラットを表しています。
金の場合は24カラットで純度が100%になります。
そこで、18K刻み込まれてあれば、指輪には24分の18の金が含まれている、と言う事を表しています。
また、ペン先などに多い14金は24分の14だけ金を含んでおり、純度は約58%です。
一般に金は純度が高いほど柔らかいと言われます。
この為、純度100%の金製品は柔らかくて変形したりキズが付くため売っていません。
地金はフォーナイン(純度99.99%)物が多いようです。
買う時は損をしないようKの字に注意してください。
金と錬金術 [金の歴史]
「金を作る事が出来ないだろうか」
これは人類の夢でした。
この夢の方法を練金術といいます。
練金術は紀元前3世紀、古代エジプトに始まりました。
その後、アラビアを経て中世のヨーロッパに伝わりました。
その根拠になったのが古代ギリシャの大学者アリストテレスの説です。
アリストテレスは物理は火・気・水・土からなり、その組み合わせを変えれば金は出来ると考えたのです。
もちろん成功した人はいませんが、これが基になって科学技術が発達近代科学の基礎になりました。
事実、塩酸や硝酸などもアラビアの練金術師が作ったそうです。
日本では練金術は流行ませんでしたが、明治時代、東大の実験室で水銀に電流を流したら金が出来たとされ大騒ぎになりました。
しかし、水銀の中に微量の金が含まれていた為でそうは問屋が卸さなかったようです。
金を作る確実な方法、それは「賢者の石」を見つけ出す事です。
これはあらゆる物質を金に変える石の事で、古来練金術師が必死で探し求めました。
まだ発見されてませんが、発見出来たら世界一の大金持ちになる事は間違いありません。
ゴールドフィンガーとは [金の歴史]
ゴールドフィンガーとは、世界一金が集まっている所です。
そこは、米国ケンッタキー州にある「フォートノックス」です。
ここには米連邦準備銀行が保有している金や世界各国の政府から預かった金が集められていると信じられています。
フォートノックスに金の保管所ができたのは1936年、フランクリン・ルーズベルト大統領の時で、以来、世界から安全を求めて続々と金が集まりました。
世界の金の半分が集まったと伝えられています。
1974年に報道陣に公開され、当時は1200トンの金塊が保管されていそうです。
007シリーズの「ゴールドフィンガー」では、原爆を爆発させて金を放射能で汚染させて使い物にならなくして、価格をつり上げようという陰謀が画されました。
ただ、残念ながらそうはいかないようです。
著名な金の研究家アンディ・スミス氏は「金はニューヨークの米連邦銀行地下の大金庫にあり、48時間前に申し出ればだれで見学できる」といっています。
さて、どちらが本当なのでしょうか。
佐渡の金山 [金の歴史]
「草木もなびく」と歌われた佐渡ヶ島。
佐渡へ草木をなびかせたのがこの島が産出した金でした。
関ヶ原の戦いの翌年1601年に発見され、江戸時代に産出量が急増。
「佐渡といえば金山、金山といえば佐渡」と言う程に日本を代表する鉱山になりました。
幕府は慶長小判をはじめ各種の小判を鋳造しましたが、小判の鋳造には佐渡の金が大きな役割を果たしました。
ただ、生産には大変な犠牲が払われ、金を掘る時に大量の水が湧き出し、その水を汲み出すのが重労働でした。
これには諸国で罪を犯して佐渡に送られた人々が当たりましたが、環境が極めて悪く約3年しか生きられなっかたそうです。
「佐渡は生き地獄」と恐れられ、佐渡を脱出する「島抜け」は死罪だったにも関わらず脱出を図った人が跡を断たなかったそうです。
しかし成功の記録はほとんど残っていません。
江戸時代にこの島で産出した金の量は不明で、一説には約80トンとも言われています。
その約3分の1が運上金として、幕府に納められたとの事です。
ゴールドラッシュとカルフォルニア [金の歴史]
ゴールドラッシュといえば昔から世界各地で引き起こされましたが、歴史上、最も著名といえば、米国カルフォルニアです。
カルフォルニアでゴールドラッシュが起こったのは1848年1月24日でした。
この日は米国とスペインの戦争が米国の圧勝に終わり、カルフォルニアを米国に編入するという講和条約が結ばれる9日前でした。
きっかけは、当時メキシコ領だったカルフォルニアのサクラメント川の支流アメリカン川で男性が水車を回そうと川底の土をすくい上げた所、光る物を見付けました。
これが発端となり、翌49年にはアメリカのみならず世界各地から人々が急増、50年にはカルフォルニアは州に昇格した程です。
現在サンフランシスコに「フォーティナイナーズ」というフットボールのチームは、その名の49という数字はこのゴールドラッシュの起こった年、1849年にちなんだものと言われています。
「虎は死して皮を残す」と言われますが、ゴールドラッシュは消えてもアメリカンフットボールにその名を残した訳です。