御金蔵破りについて [金の歴史]


警戒厳重な城中に忍び込んで大判、小判を頂戴する。



いわゆる「御金蔵破り」は時代劇の名場面ですが、そうは多くなかったようです。



見つかれば、打ち首、獄門は免れません。



第一、大名は貧乏で、商人からお金を借りていた所が多く、御金蔵に押し入っても大した物は取れず、割が合わないと言う事が泥棒にも分かていたのでしょう。



とは言っても、御金蔵破りが全くなかった訳ではなく、いくつか報告されています。



その内、おそらく最大な物は享保19年に甲府城の金蔵を襲ったものではないでしょうか。



この御金蔵破りでは二千両が奪われたと記録に残っています。



犯人は捕まりませんでしたが、この時は甲府勤番の交代制を狙ったと言われています。



それだけに、幕府の内実に詳しかった者の犯行と考えれています。



ただ、御金蔵破りは大名にとって極めて不名誉なだけに、あったとしても闇から闇に葬られた公算が大きいと思われます。



それだけに実際にはこれ以上多額なものがあったかも知れません。



金座跡地で大儲け [金の歴史]

江戸時代、小判など金貨を造っていた所を銀座と言っていました。



その内、銀座は今や日本一の繁華街になっており、場所を知らない人はいません。



ところが、金座の跡は意外と知られていません。



金座は現在の日本銀行本店のある場所、東京都中央区日本橋本石町にありました。



日本銀行は設立当初、同じ中央区の小船町にありましたが手狭になり、金座の跡地を購入、そこに移転する事にしたのです。



ところが「金座の跡の土砂には金が混じっている」との噂が立ち、一獲千金を夢見て採掘を申し込む人が跡を断ちませんでした。



そこで、明治二一年、日本銀行の建物を建築する前に数社に採掘を認めたところ、が出てきました。



この時、採掘料だけでも当時の金で一千円が日本銀行に入りました。



最も、採掘された金の量はどの程度か、残念ながら分からないとのことです。



それにしても、金座の跡に日本銀行があるとは実によくできた話ではあります。



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