消費税アップで売却がお得になる!? [金の歴史]
2010年代半ばまでに段階的に消費税率を10%まで引き上げる等といった話題が取り沙汰されていますが、金の売却については消費税アップにより受取額がお得になります。
金を購入時に消費税を支払うことになりますが、売却する時には消費税を受け取ることになります。
つまり、消費税率がそのままなら相殺されますが、数年後に消費税率がアップすれば、税率がアップした分だけ消費税を受け取れることになります。
例えば、1グラム3,800円で500グラムの金地金にかかる消費税5%は9万5,000円ですが、10%では19万円になります。
これから金地金等を購入する場合、数年後に消費税率が引き上げられれば、税率のアップ分だけ消費税を受け取れる可能性が出てきます。
ただし、金の価格は日々変動していますので金の価格が値下がりすれば損失が発生することになります。
ルネッサンスの天国の門 [金の歴史]
イタリアのフィレンツェに「天国の門」と呼ばれる黄金を施した門があります。
場所はサン・ジャバンニ礼拝堂。
12世紀に建てられたフィレンツェで最も古い礼拝堂です。
同市の守護神ヨハネを祭っており、フィレンツェ市民は皆ここで洗礼を受けています。
14世紀にこの門を修理する事になり、扉に刻む彫刻のコンペが行われました。
このコンペにはギベルティという彫刻家が優勝。
そのギベルティが50年後にもう1つ、扉を作りました。
それが表面を黄金で覆ったこの門でした。
この扉を見たミケランジェロは素晴らしい出来映えに「おお、神々しい作品よ、天国に値する門よ」と言ったとされ、それから「天国の門」と言われるようになりました。
この門はルネッサンスを開いた最初の門とも言われ、その意味でも大きな意味があります。
今では表面の金がかなり剥がれていますがフィレンツェに行けば誰でも見る事が出来ます。
ローマ時代のエジプトの黄金マスク [金の歴史]
「黄金のマスク」と言えば誰でもツタンカー メンのマスクを思い浮かべる事でしょう。
確かに、古代エジプトが栄えた時代の金のマスクは大変立派ですが、実は古代エジプ
ト王朝が滅び、ギリシャ・ローマ全盛の時代にも金のマスクは作られました。
その見事な作品が発見され1999年6月13日エジプト最高考古評議会で披露されました。
この黄金のマスク、エジプト西部のオアシスにあるギリシャ、ローマ時代の巨大墳墓
群を発掘していた時に見付りました。
墳墓の中には約200体のミイラが葬られていましたが、その中に金箔のマスク で顔を覆われたミイラがあったのです。
このミイラは権力者だった事は間違いありませんが、ファラオの王ではありません。
にも関わらず、黄金のマスクを埋葬したあたり、巨大な富の所有者であった事は間違
いありません。
どうやら、当時は王に限らず権力者、大富豪は金に包まれてあの世に旅立ったようで
す。
金のしゃちほこ [金の歴史]
「尾張名古屋は城で持つ」と言われます。
その名古屋を象徴する物と言えば、名古屋城の天守閣を飾っている金のしゃちほこです。
しゃちほこは、火除けの呪いとして作られましたが、後に城主の権威を現すシンボルになりました。
名古屋のしゃちほこは木の芯に鉛の板を張り、その上を銅板で覆い、最後に慶長大判を延ばして作るという手が込んだ物でした。
純度は48%と高く、東海道や美濃街道からも見えたと解説書にあります。
まさに、尾張徳川家の権威を天下に輝かせていたと言えます。
ただ、残念な事に第二次世界大戦で焼失し、現在のは昭和34年10月に再建された物です。
ところで、このしゃちほこにはどのくらいの金が使われているのでしょうか。
しゃちほこは雄と雌の二体があり、使用している金の量が異なっています。
北側が雄で44.69キログラム、南側が雌で43.39キログラムの金を使っています。
雄の方が1キログラム以上重いそうです。
御金蔵破りについて [金の歴史]
警戒厳重な城中に忍び込んで大判、小判を頂戴する。
いわゆる「御金蔵破り」は時代劇の名場面ですが、そうは多くなかったようです。
見つかれば、打ち首、獄門は免れません。
第一、大名は貧乏で、商人からお金を借りていた所が多く、御金蔵に押し入っても大した物は取れず、割が合わないと言う事が泥棒にも分かていたのでしょう。
とは言っても、御金蔵破りが全くなかった訳ではなく、いくつか報告されています。
その内、おそらく最大な物は享保19年に甲府城の金蔵を襲ったものではないでしょうか。
この御金蔵破りでは二千両が奪われたと記録に残っています。
犯人は捕まりませんでしたが、この時は甲府勤番の交代制を狙ったと言われています。
それだけに、幕府の内実に詳しかった者の犯行と考えれています。
ただ、御金蔵破りは大名にとって極めて不名誉なだけに、あったとしても闇から闇に葬られた公算が大きいと思われます。
それだけに実際にはこれ以上多額なものがあったかも知れません。
金座跡地で大儲け [金の歴史]
江戸時代、小判など金貨を造っていた所を銀座と言っていました。
その内、銀座は今や日本一の繁華街になっており、場所を知らない人はいません。
ところが、金座の跡は意外と知られていません。
金座は現在の日本銀行本店のある場所、東京都中央区日本橋本石町にありました。
日本銀行は設立当初、同じ中央区の小船町にありましたが手狭になり、金座の跡地を購入、そこに移転する事にしたのです。
ところが「金座の跡の土砂には金が混じっている」との噂が立ち、一獲千金を夢見て採掘を申し込む人が跡を断ちませんでした。
そこで、明治二一年、日本銀行の建物を建築する前に数社に採掘を認めたところ、金が出てきました。
この時、採掘料だけでも当時の金で一千円が日本銀行に入りました。
最も、採掘された金の量はどの程度か、残念ながら分からないとのことです。
それにしても、金座の跡に日本銀行があるとは実によくできた話ではあります。
その内、銀座は今や日本一の繁華街になっており、場所を知らない人はいません。
ところが、金座の跡は意外と知られていません。
金座は現在の日本銀行本店のある場所、東京都中央区日本橋本石町にありました。
日本銀行は設立当初、同じ中央区の小船町にありましたが手狭になり、金座の跡地を購入、そこに移転する事にしたのです。
ところが「金座の跡の土砂には金が混じっている」との噂が立ち、一獲千金を夢見て採掘を申し込む人が跡を断ちませんでした。
そこで、明治二一年、日本銀行の建物を建築する前に数社に採掘を認めたところ、金が出てきました。
この時、採掘料だけでも当時の金で一千円が日本銀行に入りました。
最も、採掘された金の量はどの程度か、残念ながら分からないとのことです。
それにしても、金座の跡に日本銀行があるとは実によくできた話ではあります。
イノシシと金 [金の歴史]
戦前、日本人はイノシシに大変、親しみを持っていました。
と言うのも、イノシシを持っていけば、金と交換する事が出来たからです。
と言っても、本物のイノシシではありません。
十円札の事なのです。
かつて、十円札にはイノシシの絵が印刷せれており、俗に十円札の事をこう言っていたのです。
このイノシシには「この券引換に金貨拾圓相渡可申候」と言う趣旨の言葉が印刷されていました。
十円金貨と交換してくれると言う事です。
このように金貨と交換できるお札を兌(だ)換券といいます。
これも、当時、日本が「お札の発行量は金の保有量によって制限される」と言う金本位制をとっていた為です。
現在、日本は金本位制をとっていないので、お札はこのような分言は印刷されません。
最も、現在はお札を地金商に持って行けば誰でも自由に金を買う事が出来ます。
1973年に「金の輸入自由化」が実施された為です。
今、イノシシがあってもあまり大切にされそうにはありません。
世界最大の金貨 [金の歴史]
「金銀が野山から湧き出ずる」と唱われた桃山時代は日本の歴史上最も豪華絢爛だった時代でした。
世界最大の金貨もこの時代に造られました。
豊臣秀吉が造らせた天正長大判というのがそれです。
天正長大判は長さ約17センチ、幅は最大で約10センチで、楕円形をしています。
重さは44.1匁(165グラム)で、金の含有率は約74%で一枚には約122グラムの金が含まれている事になります。
しかし、これほど大きいと不便で専ら贈答用に使われていました。
この、天正長大判は重さの面でも長い間、世界一の座を保っていましたが、1991年ついに、その座を譲り渡しました。
オーストラリアがなんと1キログラムという大変重い「ナゲット金貨」を作ったからです。
重さでは世界一です。
最も、これも実用に適さず「金貨より地金といった方が良いのでは」と日本銀行は言っています。
この声に無念の響きが感じられないでしょうか。
金と錬金術 [金の歴史]
「金を作る事が出来ないだろうか」
これは人類の夢でした。
この夢の方法を練金術といいます。
練金術は紀元前3世紀、古代エジプトに始まりました。
その後、アラビアを経て中世のヨーロッパに伝わりました。
その根拠になったのが古代ギリシャの大学者アリストテレスの説です。
アリストテレスは物理は火・気・水・土からなり、その組み合わせを変えれば金は出来ると考えたのです。
もちろん成功した人はいませんが、これが基になって科学技術が発達近代科学の基礎になりました。
事実、塩酸や硝酸などもアラビアの練金術師が作ったそうです。
日本では練金術は流行ませんでしたが、明治時代、東大の実験室で水銀に電流を流したら金が出来たとされ大騒ぎになりました。
しかし、水銀の中に微量の金が含まれていた為でそうは問屋が卸さなかったようです。
金を作る確実な方法、それは「賢者の石」を見つけ出す事です。
これはあらゆる物質を金に変える石の事で、古来練金術師が必死で探し求めました。
まだ発見されてませんが、発見出来たら世界一の大金持ちになる事は間違いありません。
ゴールドフィンガーとは [金の歴史]
ゴールドフィンガーとは、世界一金が集まっている所です。
そこは、米国ケンッタキー州にある「フォートノックス」です。
ここには米連邦準備銀行が保有している金や世界各国の政府から預かった金が集められていると信じられています。
フォートノックスに金の保管所ができたのは1936年、フランクリン・ルーズベルト大統領の時で、以来、世界から安全を求めて続々と金が集まりました。
世界の金の半分が集まったと伝えられています。
1974年に報道陣に公開され、当時は1200トンの金塊が保管されていそうです。
007シリーズの「ゴールドフィンガー」では、原爆を爆発させて金を放射能で汚染させて使い物にならなくして、価格をつり上げようという陰謀が画されました。
ただ、残念ながらそうはいかないようです。
著名な金の研究家アンディ・スミス氏は「金はニューヨークの米連邦銀行地下の大金庫にあり、48時間前に申し出ればだれで見学できる」といっています。
さて、どちらが本当なのでしょうか。
佐渡の金山 [金の歴史]
「草木もなびく」と歌われた佐渡ヶ島。
佐渡へ草木をなびかせたのがこの島が産出した金でした。
関ヶ原の戦いの翌年1601年に発見され、江戸時代に産出量が急増。
「佐渡といえば金山、金山といえば佐渡」と言う程に日本を代表する鉱山になりました。
幕府は慶長小判をはじめ各種の小判を鋳造しましたが、小判の鋳造には佐渡の金が大きな役割を果たしました。
ただ、生産には大変な犠牲が払われ、金を掘る時に大量の水が湧き出し、その水を汲み出すのが重労働でした。
これには諸国で罪を犯して佐渡に送られた人々が当たりましたが、環境が極めて悪く約3年しか生きられなっかたそうです。
「佐渡は生き地獄」と恐れられ、佐渡を脱出する「島抜け」は死罪だったにも関わらず脱出を図った人が跡を断たなかったそうです。
しかし成功の記録はほとんど残っていません。
江戸時代にこの島で産出した金の量は不明で、一説には約80トンとも言われています。
その約3分の1が運上金として、幕府に納められたとの事です。
ゴールドラッシュとカルフォルニア [金の歴史]
ゴールドラッシュといえば昔から世界各地で引き起こされましたが、歴史上、最も著名といえば、米国カルフォルニアです。
カルフォルニアでゴールドラッシュが起こったのは1848年1月24日でした。
この日は米国とスペインの戦争が米国の圧勝に終わり、カルフォルニアを米国に編入するという講和条約が結ばれる9日前でした。
きっかけは、当時メキシコ領だったカルフォルニアのサクラメント川の支流アメリカン川で男性が水車を回そうと川底の土をすくい上げた所、光る物を見付けました。
これが発端となり、翌49年にはアメリカのみならず世界各地から人々が急増、50年にはカルフォルニアは州に昇格した程です。
現在サンフランシスコに「フォーティナイナーズ」というフットボールのチームは、その名の49という数字はこのゴールドラッシュの起こった年、1849年にちなんだものと言われています。
「虎は死して皮を残す」と言われますが、ゴールドラッシュは消えてもアメリカンフットボールにその名を残した訳です。
金閣寺の総費用額 [金の歴史]
室町時代を代表する北山文化その象徴ともいえるのが金閣寺です。
三層の優雅な建物は繊細な日本文化の伝統を今日に伝えていますが、それ以上に心に焼き付くのが豪華な金の外壁です。
この金閣寺は足利義満によって1397年に建立されましたが、当時の建物は1950年に火災で炎上、現在の建物は昭和30年に再建されたものです。
費用は30年当時のお金で7億4000万円。
外壁に張った金の量は約20キログラムとの事です。
これを1グラム、1000円で換算すると、2000万円となります。
現在使われている金箔は通常の金箔より厚くなっています。
金箔の厚さは通常、0.1ミクロンですが現在の金閣寺は0.45~0.55ミクロンと通常の金箔の約5倍の厚さになっています。
金閣寺創建時の金箔の厚さは今に伝わっていませんが「恐らく、現在の方が厚いのでは」とは、金閣寺のある鹿苑寺の弁です。
もちろん、総費用は義満の時の方が多かったと思われますが、こと金に関しては我々は義満以上に豪華なものを眺めているのかもしれません。
三層の優雅な建物は繊細な日本文化の伝統を今日に伝えていますが、それ以上に心に焼き付くのが豪華な金の外壁です。
この金閣寺は足利義満によって1397年に建立されましたが、当時の建物は1950年に火災で炎上、現在の建物は昭和30年に再建されたものです。
費用は30年当時のお金で7億4000万円。
外壁に張った金の量は約20キログラムとの事です。
これを1グラム、1000円で換算すると、2000万円となります。
現在使われている金箔は通常の金箔より厚くなっています。
金箔の厚さは通常、0.1ミクロンですが現在の金閣寺は0.45~0.55ミクロンと通常の金箔の約5倍の厚さになっています。
金閣寺創建時の金箔の厚さは今に伝わっていませんが「恐らく、現在の方が厚いのでは」とは、金閣寺のある鹿苑寺の弁です。
もちろん、総費用は義満の時の方が多かったと思われますが、こと金に関しては我々は義満以上に豪華なものを眺めているのかもしれません。
日本の埋蔵金伝説 [金の歴史]
日本全国どこに行っても、埋蔵金伝説を聞く事ができます。
戦国時代から江戸時代へかけて、各地で多くの金銀銭が日常茶飯として埋蔵され、また掘り出されていました。
日本最大級の埋蔵金が眠っているとされる「太閤遺金」こと「秀吉の埋蔵金」。
推察される場所は、『兵庫県川辺郡猪名川町多田銀山』です。
豊臣秀吉が死の床についたとき、後継ぎの秀頼はまだ6歳。政権を託すには幼く、秀吉は勘定奉行の幡野三郎光照に命じて莫大な黄金を埋蔵させたといいます。
それは、朝鮮出兵の軍用金の残り、天正長大判4億5000万両と金塊3万貫。もし本当なら、金の地金としての値打ちだけでも5兆円以上。
天正長大判は1枚5000万円とも言われているので、天文学的な金額となります。
ある旧家から信憑性の高い埋蔵秘文書も見つかっており、様々な人によって探索が続けられてきましたが、金のかけら一つも見つかっていません。
それでも世界では群を抜く埋蔵金伝説です。埋蔵金を追いかける「宝探し」には、なぜかワクワクする大きなロマンがあります。
文字数:440
日本の産金 [金の歴史]
日本最大の金鉱であった有名な佐渡の金山は、1601年に鶴子銀山の山師3人が金脈を発見し、徳川家康より命じられた大久保長安がここを治めて以来、約300年ものあいだ金が採掘されました。
最盛期は年間に約400kgの金が採掘されましたが、1898年枯渇により採掘を中止しました。
現在、日本ではほとんどの金が鹿児島県にある菱刈鉱山で採掘されています。
ここの金鉱石は1tから約40gの金が取れる高品位のもので、153トンもの金を掘り出しています。
埋蔵量は300トン前後ということなので、まだ半分しか掘っておらず、あと20年は鉱山寿命が続くそうです。
それでも現在の日本の金産出量は世界のわずか0.3%前後です。
これは佐渡の金山を始め、主要な金山をあらかた掘りつくしてしまい、ほぼ菱刈鉱山での採掘だけになってしまった為です。
日本が今まで産出してきた金の量ですが、世界の総産出量の約1%に当たる約1600トンと推定されています。
黄金の国、というにはやや物足りない数字かもしれません。
金の歴史と近い未来 [金の歴史]
金というのは希少性の高い金属です。
金の埋蔵量は極端に少なく、1トンの金鉱石から3グラムも取れれば上出来という世界です。
そこで、中世ヨーロッパでは他の金属から金を生み出す研究が盛んに行われ、これが有名な錬金術です。
残念ながら、金を作り出す事はできませんでしたが、錬金術から生まれたさまざまな技術が、現在の科学の始まりとなっています。
現在でも金の用途の大半は宝飾品、アクセサリーですが、最先端の技術においても金はなくてはならない素材です。
この先、工業用にまわされる比率が増えるでしょうが、そうなれば金のアクセサリーの価格は高騰していきます。
今は奮発すれば買える金のアクセサリーも、近い未来にはおいそれと購入できなくなるのかも知れません。
ただ、海底などから効率的に金を抽出できるようになれば、逆に身近な金属になるかもしれません。
金は将来、VIPにしか持てないような貴重品になるか、随分と買いやすくなるか、どちらに転ぶか判りません。
金の埋蔵量は極端に少なく、1トンの金鉱石から3グラムも取れれば上出来という世界です。
そこで、中世ヨーロッパでは他の金属から金を生み出す研究が盛んに行われ、これが有名な錬金術です。
残念ながら、金を作り出す事はできませんでしたが、錬金術から生まれたさまざまな技術が、現在の科学の始まりとなっています。
現在でも金の用途の大半は宝飾品、アクセサリーですが、最先端の技術においても金はなくてはならない素材です。
この先、工業用にまわされる比率が増えるでしょうが、そうなれば金のアクセサリーの価格は高騰していきます。
今は奮発すれば買える金のアクセサリーも、近い未来にはおいそれと購入できなくなるのかも知れません。
ただ、海底などから効率的に金を抽出できるようになれば、逆に身近な金属になるかもしれません。
金は将来、VIPにしか持てないような貴重品になるか、随分と買いやすくなるか、どちらに転ぶか判りません。
金は高貴な者だけに [金の歴史]
世界で貴金属として扱われ、装飾品に使われてきた金。
その歴史はすでに紀元前にさかのぼり、何千年もの歴史を誇ります。
歴史上最も有名なのは、ツタンカーメン王の黄金のマスクですが、これは紀元前1300年代に作られたものとされています。
しかし、最古の歴史にあるものでは、古代シュメール人が紀元前6000年頃、すでに金装飾を用いていたという話もあります。
エジプトは金と関わりの深い国で、ファラオの時代から「金は高価で尊いものである」として珍重してきました。
珍重するあまり、金は神が王に遣わしたものだとして、一般市民が金のかけらを持つ事さえ禁じました。国民はたとえわずかでも、全てファラオに差し出すものと決められていたのです。
こうして集められた金が、王の金の棺やマスクにと加工されていき、当時は砂金採りの手法で集められていたにもかかわらず、ツタンカーメン王の眠る棺の金の使用量は110kgで1グラムを2500円と計算した場合2億7500万円という莫大な量にのぼります。
その歴史はすでに紀元前にさかのぼり、何千年もの歴史を誇ります。
歴史上最も有名なのは、ツタンカーメン王の黄金のマスクですが、これは紀元前1300年代に作られたものとされています。
しかし、最古の歴史にあるものでは、古代シュメール人が紀元前6000年頃、すでに金装飾を用いていたという話もあります。
エジプトは金と関わりの深い国で、ファラオの時代から「金は高価で尊いものである」として珍重してきました。
珍重するあまり、金は神が王に遣わしたものだとして、一般市民が金のかけらを持つ事さえ禁じました。国民はたとえわずかでも、全てファラオに差し出すものと決められていたのです。
こうして集められた金が、王の金の棺やマスクにと加工されていき、当時は砂金採りの手法で集められていたにもかかわらず、ツタンカーメン王の眠る棺の金の使用量は110kgで1グラムを2500円と計算した場合2億7500万円という莫大な量にのぼります。
ジュエリーとジュエルの違いとは [金の歴史]
日本では装身具の事を「ジュエリー」「アクセサリー」という言葉が混合して使われています。
しかし装身具は「ジュエリー」と呼ぶのが一般的です。
アクセサリーは主に「本体に付加するための付加物」という意味合いであり、日本でそれが使われ始めたとき、装身具は服飾の「そえもの」だと考えられたのでしょう。
けれどもこの呼び方はジュエリーの性格を適切に指し示しているとは思えません。
勿論、安価な素材で作られた装飾物で服飾のあしらいとして用いられるものについてはこの呼び方でも差し支えはないのですが、これは私が考える「ジュエリー」というものをすべて包含しているとはとても思えません。
では、ジュエリーとは何なのでしょうか?まず、 ジュエルとジュエリーは別のもの。
「ジュエル」は「宝石」の事。
「ジュエリー」は(その境界は曖昧)主に貴金属と貴石を用いて作った装身具を指します。
しかし装身具は「ジュエリー」と呼ぶのが一般的です。
アクセサリーは主に「本体に付加するための付加物」という意味合いであり、日本でそれが使われ始めたとき、装身具は服飾の「そえもの」だと考えられたのでしょう。
けれどもこの呼び方はジュエリーの性格を適切に指し示しているとは思えません。
勿論、安価な素材で作られた装飾物で服飾のあしらいとして用いられるものについてはこの呼び方でも差し支えはないのですが、これは私が考える「ジュエリー」というものをすべて包含しているとはとても思えません。
では、ジュエリーとは何なのでしょうか?まず、 ジュエルとジュエリーは別のもの。
「ジュエル」は「宝石」の事。
「ジュエリー」は(その境界は曖昧)主に貴金属と貴石を用いて作った装身具を指します。
歴史の深い宝石~ラピス・ラズリ [金の歴史]
12月誕生石のラピス・ラズリとは、ラテン語でラピスは石、ラズリは青を意味します。
歴史の古い宝石ですが、古代ではサファイアと混同されていたようです。
日木でも、瑠璃(るり)の和名で古くから親しまれていました。
また、仏教の世界では七宝のひとつにも数えられ、たいへん重宝されています。
品質と選び方として、群青色の色合いが、石全体に渡ってムラなく広がっているのが良質とされています。
ラピス・ラズリは、数種類の鉱物が混合してひとつの塊になった宝石です。
群青色の地肌に、キラキラと光る金粉のようなものが含まれている場合がありますが、これはパイライトという鉱物が一緒に取り込まれているからです。
このパイライトは、ふつう合まれていない方が良いとされています。
しかしパイライトの有無は好みの問題であり金色のパイライトは、見る人によっては満天の星のように見え、この宝石を個性的なものと感じられるでしょうから。
硬度は5.5でキズつきやすい宝石です。
しかし割れや欠けに対する低抗カは強い宝石です。
歴史の古い宝石ですが、古代ではサファイアと混同されていたようです。
日木でも、瑠璃(るり)の和名で古くから親しまれていました。
また、仏教の世界では七宝のひとつにも数えられ、たいへん重宝されています。
品質と選び方として、群青色の色合いが、石全体に渡ってムラなく広がっているのが良質とされています。
ラピス・ラズリは、数種類の鉱物が混合してひとつの塊になった宝石です。
群青色の地肌に、キラキラと光る金粉のようなものが含まれている場合がありますが、これはパイライトという鉱物が一緒に取り込まれているからです。
このパイライトは、ふつう合まれていない方が良いとされています。
しかしパイライトの有無は好みの問題であり金色のパイライトは、見る人によっては満天の星のように見え、この宝石を個性的なものと感じられるでしょうから。
硬度は5.5でキズつきやすい宝石です。
しかし割れや欠けに対する低抗カは強い宝石です。